今日は、日月山水図屏風(金剛寺蔵)を見に行った。
砧公園の中の世田谷美術館で「
白洲正子 神と仏、自然への祈り」という展示。
先日、一度見に行っているのだけれど、展示替えになる前にもう一度見たかった。
ずっと見てみたくて、ご縁のなかったもの。
最初は何で知ったのだろう。
作者不詳で、自然をモチーフにした曼荼羅とか、宗教儀式に使われたのではといわれている六曲一双の屏風。
遠景も近景もくっきり描かれていて、ふと、グランマ・モーゼスの絵を思い出す。
太陽と月、遠山に霞む桜、根洗いの松、砕ける波しぶき、流れ落ちる滝、雪の降り積もった山々などなど、見ていて飽きない。
ただ、季節の移り変わりが気になる。
右隻の右から左へ「春から夏」、左隻の左から右へ「秋から冬」。
展示してあるように、右隻と左隻を一直線に並べると、上手く繋がらない。
自分を中心に、囲むように廻らせても上手く繋がらない。
もしかして、右隻の左端にちょっと間を空けて左隻の左端を90度に置いて見たらどうだろう。
そして、自分が春から夏、秋から冬へと移動しながら眺めると、やっと季節が順繰りに巡りだす。
右隻を手前、左隻を奥に平行に置いて、手前の屏風の周りをぐるりと回るようにすれば、何回でも季節のめぐりを体験できる。
そんなことを考えながら美術館を出て、砧公園を散策した。
今を盛りの桜の下で花見をする人々。
本当にすごい桜。
なだらかな草地を歩いてゆくと、緑の木々の間にもポツリポツリと桜が咲いている。
まるで先ほど穴の開くほど見つめていた屏風の春の部分のように。
花曇で影もなく、方向を失い、公園の中で道に迷ってしまった。
屏風の中へ入ってしまったらこんな気分なのだろうか。
仕事に戻るために街中を歩いていてふと思った。
あの屏風はきっとその周りを歩きながら眺めるように作られていたのだろう。
あれが曼荼羅なら、こうして歩いているこの世の中も曼荼羅のようなものなのだろう。
生きていて歩いているということは、幸せなことだと思った。