2011年4月17日日曜日

木陰の春

自転車で、ミニミニ峠越えしてきました。
行きだけは何とか押さずに登れました。
昔、素彫りだったトンネルも、今は、フツーにきれいになっていましたが、相変わらずすれ違いは無理そう。

送信者 音の良きかな

林の縁にスミレ。
タチツボスミレかな。
可憐な群生。

送信者 音の良きかな

ちょっと離れたところに、ウラシマソウ。
怪しげな釣り人。
ひんやりとした空気がちょっと気持ちよい季節。

2011年4月10日日曜日

さくら さくら

今日は、ご近所のかわいい三姉妹を誘って、朝から静岡県立美術館へ行きました。

「百花繚乱」展。開館25周年記念の企画展としての所蔵品展。
質はもちろんですが、その量と圧縮された展示の仕方がすごかった。
お腹いっぱい、大満足という感じでした。

美術館の周りはもちろん、行き帰りの車窓から見えるさくらも満開でした。
それから、帰りの車の中で眠ってしまった三姉妹も花のようでかわいかった。

午後は、初倉でちょっと昼寝をしてから、東名で鎌倉へ移動。
道中、どこもさくらがきれいでしたが、由比から富士川、富士にかけての辺りがすばらしかった。
枝の先までぽんぽこぽんに満開でした。
特に富士川SAの手前は道路の両側がさくらの木で、時間もちょうど夕暮れ時で、夢のようでした。

遠山に霞む山桜は、先日見た屏風の春の部分そのままで、なんだか幸せな気分。

昨晩の社務所での花見のようにどこかにじっくり腰を据えても良し、今日のように移動しながら楽しむのも良し。
さくらに変わりは無いけれど、同じさくらでも違う面が見えるだろう。

2011年4月8日金曜日

日月山水図屏風の中へ





今日は、日月山水図屏風(金剛寺蔵)を見に行った。

砧公園の中の世田谷美術館で「白洲正子 神と仏、自然への祈り」という展示。

先日、一度見に行っているのだけれど、展示替えになる前にもう一度見たかった。


ずっと見てみたくて、ご縁のなかったもの。
最初は何で知ったのだろう。

作者不詳で、自然をモチーフにした曼荼羅とか、宗教儀式に使われたのではといわれている六曲一双の屏風。
遠景も近景もくっきり描かれていて、ふと、グランマ・モーゼスの絵を思い出す。
太陽と月、遠山に霞む桜、根洗いの松、砕ける波しぶき、流れ落ちる滝、雪の降り積もった山々などなど、見ていて飽きない。

ただ、季節の移り変わりが気になる。
右隻の右から左へ「春から夏」、左隻の左から右へ「秋から冬」。

展示してあるように、右隻と左隻を一直線に並べると、上手く繋がらない。
自分を中心に、囲むように廻らせても上手く繋がらない。

もしかして、右隻の左端にちょっと間を空けて左隻の左端を90度に置いて見たらどうだろう。
そして、自分が春から夏、秋から冬へと移動しながら眺めると、やっと季節が順繰りに巡りだす。

右隻を手前、左隻を奥に平行に置いて、手前の屏風の周りをぐるりと回るようにすれば、何回でも季節のめぐりを体験できる。

そんなことを考えながら美術館を出て、砧公園を散策した。
今を盛りの桜の下で花見をする人々。
本当にすごい桜。

なだらかな草地を歩いてゆくと、緑の木々の間にもポツリポツリと桜が咲いている。
まるで先ほど穴の開くほど見つめていた屏風の春の部分のように。
花曇で影もなく、方向を失い、公園の中で道に迷ってしまった。
屏風の中へ入ってしまったらこんな気分なのだろうか。

仕事に戻るために街中を歩いていてふと思った。
あの屏風はきっとその周りを歩きながら眺めるように作られていたのだろう。
あれが曼荼羅なら、こうして歩いているこの世の中も曼荼羅のようなものなのだろう。

生きていて歩いているということは、幸せなことだと思った。