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2013年12月2日月曜日

今日の稲村ケ崎   宵空


なんて事のない冬の日々の宵




「惑星に住んでいる」

って気分になれる!

実際にそうなんだけれど…

2013年2月7日木曜日

flow 曖昧な境界


音無川の河口



昨日の雨と
津波と
満ち潮が連れて来た海藻が揺れている


よく見ると
水の中に
微かな陽炎が揺れている


小さな汽水域


境目が曖昧なまま
ゆらゆら ゆらゆら
流れてゆく



季節もまた

行きつ戻りつ
遷り変わってゆく


人生もまた然り

2012年8月31日金曜日


新宿駅西口



空を見上げていると

辛かった時のことを思い出す





どんな時にも

誰の上にも空がある


何処にいても

太陽が、月が私を照らしてくれる

美しく輝く星々と私の間を

遮るものは何も無い


もし


空を見上げることが出来ない状況にある人がいたら

どんなに辛いだろう

そんな人がいるのなら

どうぞ少しでも楽になりますように




そんな事を考えてた



2011年9月1日木曜日

波打ち際


台風が近づいて、今日も海は大荒れ。
レストランの窓から見える海はこんな感じ。






この夏は、ワンコと朝の海辺を散歩するのが楽しかった。
犬の散歩というよりは、犬を引きずって、私が波打ち際をふらふらと跣で歩く。
犬はあきらめて、しぶしぶ付いて来る。
そんな散歩です。



波打ち際って、海と陸地の合わさるところ。
地球上にどれくらいあるのか?

朝というのは、夜と昼の合わさるところ。
一年の中では、冬至と夏至を境に早くなったり遅くなったりする。

同じ朝でも日によって、潮が満ちていたり、引いていたり。

今日の月はどんなだっけ?新月?満月?
月の満ち欠けも波のようだ。

世の中にも浮き沈みがあるし、人の心も浮き沈みがある。
行ったきり戻らないということはないな。大概、行ったりきたりを繰り返してる。



そんな事を考えながら歩く。
波の音と潮風に包まれて、足首辺りまで水に浸かりながらぼーっと歩く。
まっすぐ歩いて波に飲まれても困るので、寄せる波にあわせて行きつ戻りつしながら。

(わんこが居なかったら、見るからに危ない人でしょうね。犬のキリークに感謝。)

世の中も、人(自分)の心も、こんな具合に出来ないものか?
波にあわせて上手いこと、沖のサーファーのように。


でも、こんな大時化の日は、歩けるような波打ち際も、砂浜もなくなるので、散歩もお休み。
誰かと美味しいご飯を食べて、じっとしているのも良し。




2011年6月29日水曜日

夕暮れ時

暑い一日でした。


いくらか涼しくなってから、ちょいと散歩してきました。

カフェに寄り道して、

「波打ち際は大気と海水と大地の境目だ」

だとか、

「波打ち際で泡がはじけるときにイオンが出ているから心身に良いに違いない。」

だとか、ノンアルコールビールを飲みながら、取り留めのない話をして、また散歩。



なんとなく波打ち際の写真を撮って














あいまいな水平線も撮って














あれ、モニターの空がほんのり夕焼け色になっている。

どんどん辺りは薄暗くなってきて、


道端のアジサイが赤く滲み出して














山陰のアジサイが浮かび上がってきて























それがまたどんどん夕闇に埋もれていって






















ふと気づくと自分の足元も闇に埋もれている。














夕暮れ時ってそんなものかなと。

2011年4月8日金曜日

日月山水図屏風の中へ





今日は、日月山水図屏風(金剛寺蔵)を見に行った。

砧公園の中の世田谷美術館で「白洲正子 神と仏、自然への祈り」という展示。

先日、一度見に行っているのだけれど、展示替えになる前にもう一度見たかった。


ずっと見てみたくて、ご縁のなかったもの。
最初は何で知ったのだろう。

作者不詳で、自然をモチーフにした曼荼羅とか、宗教儀式に使われたのではといわれている六曲一双の屏風。
遠景も近景もくっきり描かれていて、ふと、グランマ・モーゼスの絵を思い出す。
太陽と月、遠山に霞む桜、根洗いの松、砕ける波しぶき、流れ落ちる滝、雪の降り積もった山々などなど、見ていて飽きない。

ただ、季節の移り変わりが気になる。
右隻の右から左へ「春から夏」、左隻の左から右へ「秋から冬」。

展示してあるように、右隻と左隻を一直線に並べると、上手く繋がらない。
自分を中心に、囲むように廻らせても上手く繋がらない。

もしかして、右隻の左端にちょっと間を空けて左隻の左端を90度に置いて見たらどうだろう。
そして、自分が春から夏、秋から冬へと移動しながら眺めると、やっと季節が順繰りに巡りだす。

右隻を手前、左隻を奥に平行に置いて、手前の屏風の周りをぐるりと回るようにすれば、何回でも季節のめぐりを体験できる。

そんなことを考えながら美術館を出て、砧公園を散策した。
今を盛りの桜の下で花見をする人々。
本当にすごい桜。

なだらかな草地を歩いてゆくと、緑の木々の間にもポツリポツリと桜が咲いている。
まるで先ほど穴の開くほど見つめていた屏風の春の部分のように。
花曇で影もなく、方向を失い、公園の中で道に迷ってしまった。
屏風の中へ入ってしまったらこんな気分なのだろうか。

仕事に戻るために街中を歩いていてふと思った。
あの屏風はきっとその周りを歩きながら眺めるように作られていたのだろう。
あれが曼荼羅なら、こうして歩いているこの世の中も曼荼羅のようなものなのだろう。

生きていて歩いているということは、幸せなことだと思った。