2011年11月26日土曜日

鎌倉×密教「秘仏降臨」

先日、なんとなくふらふらと、鎌倉国宝館へ行って来ました。

宣伝のチラシを見ると「秘仏降臨」と書いてあって、不動明王像が厳しいお顔でこちらを睨んでいる。



どんな感じなんだろうと、恐る恐るのぞいてみると…


大日如来像から始まり、不動明王像も愛染明王像も、おどろおどろしいというよりは、温か味のある厳しさと、むしろ清々しさを感じました。



でもね。



平日の昼間、ゆっくり見ていると、傍らに欄干のような柵から身を乗り出さんばかりにして食い入るように見つめているおじ様がいる。
白髪交じりのあごまでのワンレングスヘア、グレーのツイードっぽいジャケット。
なんか、曰くありげな、物でも書きそうな、先ずサラリーマンはやったことがなさそうな人。

次のコーナーに来ると、あれ、さっき追い越したはずなのに、同じ人が今度は少し離れた位置から全体を真剣に見ている。
いや、背丈が違う。今度の人は背が高い。でも、白髪交じりの長髪で、先ずサラリーマンはやったことがなさそうな人。

ふと振り返ると、似たような人があっちにも、向こうにもいる。外ではあまり見かけないタイプだと思うのだけれど。

振り返ると、愛染明王像の前には荷物を脇に置いて、一心不乱に手を合わせているおば様がいる。


さっきから壁際のベンチに腰掛けて、お腹の前で両手に野球帽を被せている人がいるんだけれど、印かなんかを組んでるのじゃないかという気分になってくる。

ベンチの反対側には、ぐっすり眠りこけていらっしゃるお姉さまがいる。
よく、ここで眠れるなぁ。私には出来ない。

図像のコーナーへ来ると、神武寺の大威徳明王像をじっと見ているお兄さんがいる。
煤けて、よく見えないけれど、躍動感にあふれた図像。
私も、じっと目を凝らしていると、お兄さんはおもむろにポケットから単眼鏡を取り出してガラスに張り付いてしまった。



「秘仏降臨」かぁ。



そういえば私も、胎蔵界の大日如来坐像の結ぶ法界定印と、栄西禅師の頂相像の結ぶ定印と、左右の手の上下が反対だなぁ、と考えながら、それぞれの像の前で手のひらを上下に組み替えてみたりしちゃってたっけ。


国宝館に入って右奥にいらした来迎寺の如意輪観音像のような、穏やかな、何でも望みが叶ってしまったかのような、そういう人もいたのかも知れないけれど、気づかなかったなぁ。
実物はライトのあて具合か、もっと穏やかで神々しい感じでした。




写真は無いのですが、巨福呂坂町内会の歓喜天像が幸せそうで、見飽きませんでした。。
何か、意味があるのだろうけれど、相手の足の親指を踏んでいるところがかわいらしかったです。




特別展「鎌倉×密教」


明日まで。

2011年9月1日木曜日

波打ち際


台風が近づいて、今日も海は大荒れ。
レストランの窓から見える海はこんな感じ。






この夏は、ワンコと朝の海辺を散歩するのが楽しかった。
犬の散歩というよりは、犬を引きずって、私が波打ち際をふらふらと跣で歩く。
犬はあきらめて、しぶしぶ付いて来る。
そんな散歩です。



波打ち際って、海と陸地の合わさるところ。
地球上にどれくらいあるのか?

朝というのは、夜と昼の合わさるところ。
一年の中では、冬至と夏至を境に早くなったり遅くなったりする。

同じ朝でも日によって、潮が満ちていたり、引いていたり。

今日の月はどんなだっけ?新月?満月?
月の満ち欠けも波のようだ。

世の中にも浮き沈みがあるし、人の心も浮き沈みがある。
行ったきり戻らないということはないな。大概、行ったりきたりを繰り返してる。



そんな事を考えながら歩く。
波の音と潮風に包まれて、足首辺りまで水に浸かりながらぼーっと歩く。
まっすぐ歩いて波に飲まれても困るので、寄せる波にあわせて行きつ戻りつしながら。

(わんこが居なかったら、見るからに危ない人でしょうね。犬のキリークに感謝。)

世の中も、人(自分)の心も、こんな具合に出来ないものか?
波にあわせて上手いこと、沖のサーファーのように。


でも、こんな大時化の日は、歩けるような波打ち際も、砂浜もなくなるので、散歩もお休み。
誰かと美味しいご飯を食べて、じっとしているのも良し。




2011年7月28日木曜日

311を想う

今夜は、隣の隣の小さな町の花火大会でした。
去年も家の近所から海越しに花火を見ましたが、
今年はいつになく鮮やかに見えました。
風向きが良かったのもあるけれど、節電のため、海沿いの車道の街灯が消えているのも大きかったのではないかな。

いろいろな花火が上がっていたけれど、昔風のしだれ柳が一番好き。
スターマインも好き。
型物花火で、絵文字のようなスマイルマークがしっかりこちらを向いて笑ってくれたのがうれしかった。

花火を眺めながら、震災のことを想う。
花火大会には鎮魂の意味もあるというから。


来年はどうなっているのだろう。


にぎやかな花火大会はきっと復活するのだろうと思うけれど、煌々と明るい街灯も復活してしまうのだろうか?


花火を検索してネットを彷徨っていたら、こんなところにたどり着きました。
「鎌倉大線香花火大会」




来年はどうなっているのだろう…じゃなくて、
これから自分が、一人ひとりがどうして行くかだな。
きっと。

2011年6月29日水曜日

夕暮れ時

暑い一日でした。


いくらか涼しくなってから、ちょいと散歩してきました。

カフェに寄り道して、

「波打ち際は大気と海水と大地の境目だ」

だとか、

「波打ち際で泡がはじけるときにイオンが出ているから心身に良いに違いない。」

だとか、ノンアルコールビールを飲みながら、取り留めのない話をして、また散歩。



なんとなく波打ち際の写真を撮って














あいまいな水平線も撮って














あれ、モニターの空がほんのり夕焼け色になっている。

どんどん辺りは薄暗くなってきて、


道端のアジサイが赤く滲み出して














山陰のアジサイが浮かび上がってきて























それがまたどんどん夕闇に埋もれていって






















ふと気づくと自分の足元も闇に埋もれている。














夕暮れ時ってそんなものかなと。

2011年5月28日土曜日

遊戯坐の観音

先日、鎌倉の国宝館へ行ってきました。

展示のメインは建長寺「白衣観音図」。

修復後、初公開といっても、こんな具合。

送信者 音の良きかな


なんだか、入梅前の心地よい季節の夕暮れ時、ぼーっと風に吹かれてノンアルコールビールでも飲んでいるような雰囲気。
でもさすがに観音菩薩らしく、深く世界に思いをめぐらせていらっしゃるようです。

こういう座り方を遊戯坐(ゆげざ)というそうです。
中世の鎌倉地方で好まれたらしい。


こちらは、たぶんフツーのビールを飲んじゃっている感じ。

送信者 音の良きかな

いい気分で一杯飲んで、眼を半分閉じて小首をかしげているところ。
宝冠がなければ、本当にその辺にいそう。
否、きっと深く法悦を味わっていらっしゃっるのでしょう。


こちらも遊戯坐というのかしら?
送信者 音の良きかな

歩き回って疲れた足を、水に浸しているところ。
これは本当に気持ち良さそう。


他にもくつろいだお姿の観音菩薩像がいくつかあって、ゆっくり眺めていると、私もほっとくつろいだ気持ちになるのでした。

今の鎌倉にいても、これらの遊戯坐の観音像に心惹かれます。


特別展「鎌倉の至宝」

鎌倉国宝館にて明日まで。

観音遊戯坐像の企画展とかあったらもっと見てみたいです。

2011年4月17日日曜日

木陰の春

自転車で、ミニミニ峠越えしてきました。
行きだけは何とか押さずに登れました。
昔、素彫りだったトンネルも、今は、フツーにきれいになっていましたが、相変わらずすれ違いは無理そう。

送信者 音の良きかな

林の縁にスミレ。
タチツボスミレかな。
可憐な群生。

送信者 音の良きかな

ちょっと離れたところに、ウラシマソウ。
怪しげな釣り人。
ひんやりとした空気がちょっと気持ちよい季節。

2011年4月10日日曜日

さくら さくら

今日は、ご近所のかわいい三姉妹を誘って、朝から静岡県立美術館へ行きました。

「百花繚乱」展。開館25周年記念の企画展としての所蔵品展。
質はもちろんですが、その量と圧縮された展示の仕方がすごかった。
お腹いっぱい、大満足という感じでした。

美術館の周りはもちろん、行き帰りの車窓から見えるさくらも満開でした。
それから、帰りの車の中で眠ってしまった三姉妹も花のようでかわいかった。

午後は、初倉でちょっと昼寝をしてから、東名で鎌倉へ移動。
道中、どこもさくらがきれいでしたが、由比から富士川、富士にかけての辺りがすばらしかった。
枝の先までぽんぽこぽんに満開でした。
特に富士川SAの手前は道路の両側がさくらの木で、時間もちょうど夕暮れ時で、夢のようでした。

遠山に霞む山桜は、先日見た屏風の春の部分そのままで、なんだか幸せな気分。

昨晩の社務所での花見のようにどこかにじっくり腰を据えても良し、今日のように移動しながら楽しむのも良し。
さくらに変わりは無いけれど、同じさくらでも違う面が見えるだろう。

2011年4月8日金曜日

日月山水図屏風の中へ





今日は、日月山水図屏風(金剛寺蔵)を見に行った。

砧公園の中の世田谷美術館で「白洲正子 神と仏、自然への祈り」という展示。

先日、一度見に行っているのだけれど、展示替えになる前にもう一度見たかった。


ずっと見てみたくて、ご縁のなかったもの。
最初は何で知ったのだろう。

作者不詳で、自然をモチーフにした曼荼羅とか、宗教儀式に使われたのではといわれている六曲一双の屏風。
遠景も近景もくっきり描かれていて、ふと、グランマ・モーゼスの絵を思い出す。
太陽と月、遠山に霞む桜、根洗いの松、砕ける波しぶき、流れ落ちる滝、雪の降り積もった山々などなど、見ていて飽きない。

ただ、季節の移り変わりが気になる。
右隻の右から左へ「春から夏」、左隻の左から右へ「秋から冬」。

展示してあるように、右隻と左隻を一直線に並べると、上手く繋がらない。
自分を中心に、囲むように廻らせても上手く繋がらない。

もしかして、右隻の左端にちょっと間を空けて左隻の左端を90度に置いて見たらどうだろう。
そして、自分が春から夏、秋から冬へと移動しながら眺めると、やっと季節が順繰りに巡りだす。

右隻を手前、左隻を奥に平行に置いて、手前の屏風の周りをぐるりと回るようにすれば、何回でも季節のめぐりを体験できる。

そんなことを考えながら美術館を出て、砧公園を散策した。
今を盛りの桜の下で花見をする人々。
本当にすごい桜。

なだらかな草地を歩いてゆくと、緑の木々の間にもポツリポツリと桜が咲いている。
まるで先ほど穴の開くほど見つめていた屏風の春の部分のように。
花曇で影もなく、方向を失い、公園の中で道に迷ってしまった。
屏風の中へ入ってしまったらこんな気分なのだろうか。

仕事に戻るために街中を歩いていてふと思った。
あの屏風はきっとその周りを歩きながら眺めるように作られていたのだろう。
あれが曼荼羅なら、こうして歩いているこの世の中も曼荼羅のようなものなのだろう。

生きていて歩いているということは、幸せなことだと思った。